(前編)大名茶人・織田有楽斎に学ぶ 楽しいが有る、という生きかた

大名茶人・織田有楽斎に学ぶ しいがる、という生きかた。(前編)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の舞台にもなっている戦国時代。三英傑と呼ばれ、のちの天下人となった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康すべてに仕え、派手な武功ではなく、聡明さと知恵によって、血で血を洗う戦乱の世をスマートに生き延びた者がいた。
織田有楽斎。この歴史に埋もれた才人は、いまでこそその名を知る人は少ないが、織田信長の弟、建仁寺塔頭・正伝院の中興の祖、さらには茶道有楽流を興した大茶人など、多種多様な顔を持つ異能の人でもあるのだ。
そこで4月22日〜6月25日まで京都文化博物館で開催されている「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」にあわせて、織田有楽斎の謎に満ちた生涯と、彼が身を寄せた正伝永源院の歴史、そこから読み解ける現代人へのメッセージなどについて、有楽斎没後400年の記念の年に24代目住職の就任した真神啓仁氏のお話を交えつつ、紐解いていきたい。

信長の弟、ネゴシエーター、”逃げの有楽”

織田長益、のちの織田有楽斎は1547年(天文16年)、織田信長の13歳離れた11番目の弟としてこの世に生を受けた。兄・信長に仕え、織田家の一員として甲州征伐などの戦果を上げてはいるものの、武士としてはあくまで無名の存在である。

「天下布武」を公言し、神仏をも恐れぬ豪傑としてその名を天下に轟かせた兄とは異なり、そもそも有楽斎は戦を好まず、茶の湯をはじめとした芸事や文化を愛する柔和な性格の人物だったといわれている。兄の信長が暗殺された本能寺の変でも戦わずして京を離れ、岐阜へと逃げ延びたことを引き合いに「逃げの有楽」などという汚名を着せられ、しばしば歴史書などでも揶揄するような描きかたをされてきた人物だ。

真神氏「私個人は彼がそう揶揄されることに異議を唱えたいと常々考えてきました。なぜなら彼は、信長の死後も秀吉の御伽衆に加わり、さらに関ヶ原の戦いでは家康のもと東軍についています。つまり3人の天下人を支えるサポート役としてずっと重責を担ってきたからです。ではなぜ、戰嫌いの彼が兄・信長のみならず、秀吉、家康にそれほどまで大事にされたのか?それは和睦交渉の際、彼が優れたネゴシエーター(交渉人)として要所要所でその才覚を発揮してきたからだといわれています。有楽斎は武力で白黒つけるのではなく、話し合いによって妥協点を探るのに長けた人。人と人との間に立ち、人と人とを結ぶ。その能力こそ、兄の信長を筆頭に秀吉、家康と3人の天下人に重宝された所以だったのだろうと私は思っています」

戦乱の世を持ち前のコミュニケーション能力で、しなやかに生き延びた織田有楽斎。戦国時代にあってさえ最後まで和睦を志した有楽斎の「交渉術」は、世界中のあちこちで戦争や紛争の火種が燻り、ネットやSNSにおいても敵と味方に分かれて自らの主張のみを投げ合うようなコミュニケーションが支配的になるいまこそこそ、見直されるべきなのではないだろうか?そしてその視点で彼の生き様を見つめ直したとき、「逃げの有楽」という言葉の持つ意味は180度転換して立ち現れてくるように思えるのだ。「正義の戦に殉じて命を落とすより、生きのびて楽しむことに没頭しなさい」。織田有楽斎は、400年の時を超えて、そう私たちに語りかけているのかもしれない。

京での隠棲、正伝院再興、茶の湯三昧

豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利した家康によって江戸幕府が開かれ、ようやく平和が訪れたと思われた矢先、反家康を目論む諸派らが秀吉の息子である秀頼を担ぎ、豊臣家と徳川家の戦、いわゆる「大坂冬の陣」が勃発してしまう。その際、有楽斎は引き続き豊臣家に出仕。大阪城内にとどまって淀殿を支え、ここでも有楽斎は穏健派としてネゴシエーターの実力を発揮している。豊臣家を裏切った今井宗薫を許すよう進言したほか、いったんは両家に和睦締結まで実現させるのだった。しかし「大阪夏の陣」へ向けた再戦の機運が高まるなか、有楽斎はついに豊臣家を離れ、大阪を退去することとなる。

真神氏「大阪を去った有楽斎は、すぐさま京に隠棲しています。戦を好まず、人と人との間を取り持つ役割にその才を発揮した彼は、ついに刀を置き、茶の湯三昧の生活に没頭していきます。自らの出身である織田家から、その家臣であった豊臣家、徳川家を長らく支え続けてきた彼としては、その両家がいよいよ直接対決するに至ったことや、いつまでも戦に明け暮れる世の中そのものに嫌気がさしたのかもしれません」

そのようにして京に移った有楽斎は、建仁寺の塔頭・禅居庵の摩利支尊天堂を再興した父・織田信秀だった縁もあり、建仁寺塔頭・正伝院の住職に就き、復興に従事すると、そこでささやかで平穏な生涯を送ったと伝えられている。いまでは愛知県犬山市に移築・保存され国宝となっている茶室・如庵は、もともと有楽斎がここ正伝院に建てたものだった。ちなみに如庵という名は有楽斎のクリスチャンネーム「ジョアン」から取られたという説もある。

もともと正伝院は、鎌倉の建長寺を建立した蘭渓道隆という高僧の弟子にあたる義翁紹仁によって、13世紀中頃に現在の場所の東側(現在の歌舞練場の北側)に建てられたのがはじまりとされている。しかしその後は無住の寺院となり、荒廃を余儀なくされてしまう。そこで再興にあたったのが、有楽斎だったのだ。彼はここでようやく、心の平安を手に入れることができたのだろう。仏の道を志し、茶の湯の道を究めることで、武の道から逃れ、本当の自分だけの道を歩けるようになったのかもしれない。最後は千利休と並び称されるほどの大茶人となり、75歳でその波乱の生涯を閉じた。

真神氏「じつはこんな逸話が残されています。秀吉の死の直前、出家に際して当初は無楽と名乗っていました。しかし秀吉から『楽しいが有るほうが良い』と諭され、有楽を名乗るようになったというのです。哀しみから無の境地を志した彼が、最後は楽しみの有る暮らしを手に入れた。織田有楽斎、その人の後半生を象徴するエピソードではないでしょうか」

廃仏毀釈、両寺院合併、正伝永源院誕生

その後、正伝院は明治の廃仏毀釈運動の煽りを受け、細川家の菩提寺である永源庵と合併。正伝永源院と名乗り、新たな歴史をスタートさせている。ここであらためて、その経緯をかんたんに紹介しておきたい。
正伝院は、先にも述べたように鎌倉時代に建仁寺塔頭として開山されるもその後は荒廃し、江戸時代初期に有楽斎によって再興されている。しかし有楽斎没後しばらくしてふたたび荒廃し、無住の寺となってしまう。いっぽうの永源庵は、南北朝時代に清水寺の麓に建てられた。元首相の細川護煕氏の先祖にあたる細川頼有公を開基とし、無涯仁浩という禅僧を迎えて開かれ、細川忠興や細川ガラシャともゆかりがあったとされている。その後、室町時代になって現在の敷地の北側に移され、いつしか建仁寺の塔頭寺院に列するようになったと伝えられている。しかしやがて永源庵も無住となり、同じく荒廃した。

それ以降の来歴については正伝院、永源庵いずれも仔細な記録は残されておらず、くわしいことはわかっていない。しかし江戸時代が終わりを告げると、近代化の名のもとに明治の廃仏毀釈運動が激化。両寺院の本山である建仁寺の領地や寺宝などの接収が行われたことに伴い、塔頭寺院なども合併や廃寺をやむなくされていく。有楽斎が建立した茶室・如庵をはじめ正伝院に所蔵されていた多くの寺宝も、このときに流出している。さらにはすでに無住となっていた永源庵は廃寺とされると、永源庵のあった場所(正伝永源院の現在地)に正伝院が移転。このようにしてふたつの寺は合併することとなったのだ。

真神氏「当時、合併に際していったんは寺名を正伝院としました。しかし、やはり菩提寺として大切にしてきた永源庵の名をどうしても残してほしいという、細川家の強い思いがあり、それに応えるかたちで「正伝永源院」と名乗ることになったと聞いています。そのため、いまでも正伝永源院の敷地には織田有楽斎の墓とともに、細川家代々の墓も並んで建てられていますし、その縁は現在も続いていて、平成26年には細川護煕元首相による24面にわたる襖絵が奉納され、春と秋の特別公開の際には一般にも公開されています」

こうして明治の近代化の幕開けと同時に、織田有楽斎と細川家という由緒あるふたつの家の菩提寺として正伝永源院としての新しい歴史がスタートする。そしてその重責を担ったのが、現住職である真神啓仁氏の曽祖父である真神浄遠氏。現代の正伝永源院へとつながる礎を築いていくのだった。

(後編)につづく。

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